いつも思うのだが、ジェイン・オースティン作品の最大の敵はそのタイトルではないだろうか。恋愛小説やビルトゥンクスロマンへの理解があるとか、「大学の専攻は英文学です」とかなら別だろうけども、長編第一作となる「分別と多感」といい、何度も映像化されている「高慢と偏見」(「自負と偏見」の邦訳もある)といい、ちょっとタイトルから<読んでみようかな>と思わせるにはほど遠いものがあるように思う。かく言うぼくも映画化、テレビ化されて「観た」オースティンのほうが、「読んだ」オースティンよりも多い。オースティンは多作ではないので、映像化された作品はそれぞれ何バージョンもあるというのが、その理由のひとつではあるのだが。ところで、ぼくが初めてBBC版「高慢と偏見」をテレビで観たのは95年だが、正直半分も分らなかった。当時の中流および上流階級の話し振りがそうだから、ということではあるのだが、おそろしく回りくどい(字幕で訳されているのはおそらく全体の4分の1未満程度じゃないだろうか)。英国内の本放送で観ていたので当然だが、字幕はない。95年といえばぼくはロンドンに来てまだ2年目だった。なんとなく面白そうかなという感触はあったので、原作を読んで話の筋を掴んでみたいと思ったのだが、おそらく当時の英語力で読んでもまったく分らなかったろうと思う。2003年頃になって初めて読む勇気が出たのだが、BBC版を観ていたので掴みやすかった。逆に、テレビ版に吊られすぎないように読もうと意識したくらいだ。読んでみて、エリザベスは美形ではないが芯の強い女性として描かれているというのが分ったし、ダーシーはコリン・ファースとは似ても似つかない人物だというのも分った。ちなみに、映画版の「プライドと偏見」を撮ったジョウ・ライトは、原作を読まずに監督したそうである。面白い試みだと思う。でもエリザベスは美人ではないし、ダーシーはあんなに激しくカリスマ性がバイパスされた俳優が演じては決してならない。
映画化されたオースティンということで行くと、ぼくはアン・リーのファンだし、エマ・トンプソンが5年かけて脚本を書いたという「いつか晴れた日に」は好きな映画の1つである。そりゃまあ、トンプソンの泣きはギャグだとか、「ちょっとケイト・ウィンスレットの2歳上には見えないんじゃないかい?」とかはあるにせよ、何をやっても秀逸のイメルダ・ストーントンやアラン・リックマンなど含め、映画そのものの出来はすごくいいと思う。それに、「なんで?」という邦題かもしれないが、「分別と多感」よりも取っ付きやすいし、雰囲気を的確に伝えている名訳じゃないだろうか。2008年のBBC<新春ドラマスペシャル>にもジェイン・オースティンがあったのだが、これが「分別と多感」だった。はっきり言って、映画版の数百倍はいいと思う。といった感じでせっかくなのでと、改めて読んでみようと思い立ったのがこの「分別と多感」の原作である。ペンギンから出ている文字もくっきりして読みやすい活版のペーパーバックを仕入れてみた。本日、読了。
200年前の英語なので、文法とか用法とかは現代英語と若干違うのだが、すごく分りやすい。やはり人物の描き方は卓越だと思う。年齢にしては若干老成した感のあるエレナ(Elinorは、エリノアとかエリナとかが一般的のようだけど、音的には「エレナ」だと思う)といい、マリアンの<成長への痛い階段>といい。一見好青年なのだが後に本性を現す下り、えげつない人物はもう本当にかなりえげつなく描かれていたり。話の筋っていうことだと、ぶっちゃっけ「高慢と偏見」とかなり同じ話の展開である。小津安二郎の「晩春」と「秋刀魚の味」くらい同じ話だと思う。が、何が起こるか分ってるのに「この後どうなるんだろう?」と読むたびに思わせられる。大した事件が起こらないのにページを繰らずにはいられないというすごさが、オースティンにはある。漱石の言った、オースティンは「写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」というのも、全くその通りだと思う。
ところで、おそらく日本ではMr.ビーンとしてのほうが有名であろうロウワン・アトキンソンの最高傑作、コメディ「ブラックアダー」の第3シリーズのエピソード名はすべて「分別と多感(原題はSense and Sensibility)」のパロディである。Dish and Dishonestyだとか、エピソード3なんてNob and Nobilityだ。訳すとおもしろさが伝わらないので敢えて訳さないが、これの意味が分かっちゃった人は今すぐ職員室に出頭してください。
2008年2月25日月曜日
平凡にして活躍せる文字
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