この部屋の空気の重さを文章で伝えられるだろうか、書く前から疑いがある。「息苦しい」とかではない。静謐な、神々しい時間。ちなみにこの部屋だが、本当はもっと暗い。シャッターが数秒に及ぶ長時間露光なので白っぽく見えるが、実際は手探り寸前の暗さである。この暗さには理由がある。作者の希望で、極端な暗さにしてあるのだ。この暗さの中で、数十センチ手前から一点一点見るのが、作者の求める鑑賞方法なのだ。
この、巨大な紅のキャンバスの一連は、現在テートモダンに常設されている。元はテートギャラリー(現テートブリテン)に作者本人から寄贈されたものだ。1970年2月25日、この9点の絵がロンドンに到着した数時間前に、作者はニューヨークのスタジオのバスルームで遺体となって発見されている。自殺だった。たとえば、「ひまわり」とゴッホの自殺を切り離して考えることが困難なように、この絵もまた、作者の行く末を抜きには語れない。
マーカス・ロスコヴィッツは帝政ロシア時代の1903年、現在ラトヴィア領のダヴィンスクに生まれている。ユダヤ人迫害から逃れるため、10歳で家族共々オレゴン州ポートランドに渡るが、渡米後すぐ薬剤師だった父が急死したため、苦学してイェイル大学の奨学金を得る。奨学金でまかなえない経済的なサポートを得るためアーティストとしての仕事を得て、マーク・ロスコーとして生まれ変わったのが1923年である。初期はニーチェの影響、シュルレアリスムへの傾倒なども見られたが、戦後すぐには抽象表現主義の騎手として名声を得始める。1954年から57年までの3年間で、ロスコーの絵は文字通り3倍以上の価格で取引されるようになり、50代半ばのアーティストは、まさしく絶頂期にあった。1958年、ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの設計によるシーグラムビル内、「フォー・シーズンズ」レストランの壁画制作をロスコーは委嘱されている。今の価値でいう、数十億円というギャラだ。これまでのキャリアで、最大の挑戦である。マンハッタン全体が、この当代一のアメリカ画家の作品に目を見張ることになるのだ。着々と出来上がりつつある作品。ロスコーの、それまでの明るい色調と異なり、クリムゾンと黒を基調とした30点に及ぶ暗い絵の大群に、シーグラムは難色を示す。見る者にも、自分が経験した宗教的な恍惚を感じて欲しいと言っていたロスコー。アメリカの物質主義そのものに、大きな猜疑心のあったロスコー。またジャンクフードを好み、グルメに敵対心もあったロスコーは、そんな「金持ちが見せびらかしのために行くようなレストランなんかに俺の絵は飾らせない」と、あっさりその仕事を降りる。
正直、ぼくはロスコーの絵に一目惚れしたのだろうか?答えは、おそらく「ノー」だ。デュシャンのユーモア、ウォーホルのポップには、理屈抜きに飛びついた。ロスコーはどうか。学芸員の友だちとも話した覚えがあるが、ぼくもまた、世の中に多く存在するであろうと思われる「ロスコー?あの赤い絵のポスターの人?」だったのだ。
あの、テートの暗い部屋にある赤のロスコーは、9点揃ってひとつである。が、中から1点だけを選ぶとしたら、ぼくは入って右のやや小型の1点にすると思う(小型と言っても、幅は3メートル近くある)。なぜその1点にだけ特別に惹かれるのか、すぐには分らなかった。何度となく通ううちに分ってきたのだが、この絵だけ左右非対称だったのだ。そしてそれは、赤のシェイドがすべて網羅されている,赤だけの絵だったのだ。抽象表現主義の墓場。行き止まり。柱にかけられたヴェール?入口なのか、出口なのか。この暗さは、見る者を閉め出そうとしているのか、それとも、包み込んでいるのか。剣奴か。寂滅か。
アートは、現在を映し出すメディアだと言う。ロスコーの赤は現在を象徴しているのではない。ロスコーの赤は、永遠を象徴しているのだ。テートのロスコー部屋は、作者が自らに捧げた霊廟だったのだ。
2007年12月16日日曜日
ロスコー部屋
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