そういうわけで毎年読み返している「エピステーメー」と出たばかりの「ビッグ・リボウスキ」の本を併読しているのだが、一つ引っかかったことがある。映画に出てくる虚無主義者、nihilistのことである。<この世に信じられることなど何もない>、という立場の人たちだ(余談だけど、発音は「ナイアリスト」であって、ニヒリストでは、決してない)。それって「信じられることがないってことは信じてる」んじゃないの?これってちょっと「知識人の終焉」、ジャン・フランソワ・リオタールだよなあという連想が、ふと。
ここで考察されるべきこととはなにか。それは「知るべき現実があるという偏見」である。プラトン哲学への批判としてはもっとも深く、もっとも語られることの多い主題のひとつではないかと思う。が、まあ「ソーカル事件」は「買ってはいけない」みたいなもんとして、リオタールに事実誤認があろうとも、自然科学に無関心であろうとも、刺激的な言説を現していることには変わりない。村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」には恐ろしい尻切れとんぼや「ありえねえ」が随所に見られるが、小説としての面白さには変わりないのと同じである。リオタールは「頽廃と少数派の闘争」の中で、
「我々が主張することが本当だと、どうしたら知ることができるのだろうか」。科学者は、<検証>とよばれるものが或る種の操作に要約されることを認めているのである。(櫻井哲夫・訳、月刊「エピステーメー」78年1月号初出)
と言っている。不信を抱いているが、不信を抱いていることに不信を抱くと、どうなるか。まず、何をもって不信とみなすのかだが、<不信という信条>が言わば「前提」とみなされており、それはいわば暗黙の了解なわけである。「不信とはこういうものだ」という定義に共通の了解がない以上、そもそもその論証は困難だ。
そんなことに頭を使うより、イグノーベル賞のサイトでも覗いた方がいいのかもしれない。猫も洗濯物を攻撃してるところだし。
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