モラル・エピレプシーという主題。善悪の彼岸はニーチェだが、マメットの舞台は善悪の癲癇である。今日はThe Old Vicという劇場で、マメットの傑作「Speed-the-Plow」を観てきた。経営難で倒産の危機にさらされていたOld Vicだが、製作総指揮にケヴィン・スペイシーを迎えて以来見事カムバックのようである。この日も月曜の晩だというのにキャンセル待ちに100人以上の行列、ひとつの空席もない状況での開演となった。それもそのはず、ジェフ・ゴールドブラムとスペイシーの主演、歌手でもあり舞台版「ロード・オブ・ザ・リング」にも出演しているミュージカルスター、ローラ・ミシェル・ケリーの助演という贅沢なキャスティングでこのマメットの戯曲、初演から20周年なのである。
ハリウッドのプロデューサー、ボビー(ゴールドブラム)の仕事仲間であるチャーリー(スペイシー)が次の映画のネタを持ち込む。軽薄そのもの、金儲けにさえなれば内容はどうでもいい、典型的にモラルの低いこの二人。そんなボビーのオフィスに秘書として入ってきたカレン(ケリー)にもセクハラ寸前の振る舞いが続く。ボビーはいとも簡単にカレンを自宅に招くが、その純真無垢な振る舞いに自らのなりふりを反省、翌日チャーリーにこの世界から足を洗うつもりまであることを告白、思い詰めるボビーだが、、、。というプロット。
見所はなんといっても登場人物3人の演技と呼吸である。特にスペイシーのエネルギーは見る者に伝染せずにはおかない凄まじいパワーだ。コメディではあるが、「このカレンって女、実は狡いんじゃないの?」っぽいサブプロットも含め、噛み締めるほどに味の出る戯曲である。タイトルは作者によれば「意味としては'Industry produces wealth, God speed the plow.' という格言に基づいている。労働ということを意味するのみならず、一から出直しという意味もあって、この戯曲に完璧なタイトルだ」ということだそうである。なるほど、産業が富を生んでいる間、神は素早く鋤を動かすわけですな。
「Speed-the-Plow」は、単なるハリウッドへの風刺だけでは終わらない。ウォータールー駅から数分のOld Vicで4月26日まで。
2008年3月31日月曜日
道徳の癲癇、20年記念のマメット
2008年3月30日日曜日
バーセルミ再訪
中学、高校の頃から読んでいて、今でも時々引っ張り出しては読んでいる本が3タイトルある。山岸凉子の「日出処の天子」と漱石の「草枕」、それに ドナルド・バーセルミである。アメリカの「マッド」というマンガとか、Appleのマッキントッシュだとかと平行して、バーセルミは中学生のぼくを「どうしてぼくはアメリカ人じゃないんだろう」なんて思わせたものだ。ただバーセルミは短編集と言ってもバーセルミだけで1冊というのではなく、タイトルは忘れてしまったのだが、ふと入った神保町の古本屋でボルヘスも収録されているもの、というのがバーセルミとの<出会い>だったと思う。その後ユリイカとか、WAVEなんて雑誌(「メタフィクション」特集)に一部が訳出されたものだとかを含め、バーセルミの作品をずっと探し続けてなぜか全く見つからないというのが10年以上続き、気がついたらバーセルミは亡くなっていた。バーセルミはそんな個人的な曰く付きの作家でもあるが、ちょっと恐ろしい感じが、いつ読んでも漂う。猟奇的とさえ、言えるかもしれない。
手元にあるのは92年刊のアンソロジー「ドンBの教え」である。柴田元幸の名訳もいくつかあるのだが、少しずつ訳出していきたいと思っている。1ページとちょっとしかない短編「手紙を書いた」の出だしは、こんな調子である。
手紙を書いて、月の大統領に送った。そちらには、レッカー移動はあるのでしょうか、ってね。警察にわたしのホンダをレッカー移動されたのだが、実に気に食 わない。そいつを取り戻すのに、75ドルと精神衛生を犠牲にしたのだ。レッカー移動されるのは小型車だけだって知ってる?クライスラー・インペリアルが しょっぴかれるとこ見たことある?ないよね。
風刺と、諧謔に満ちている。バーセルミ楽しさはパスティーシュというか、パロディの精神であって、ポストモダン小説と言えばそうかもしれないが、そちらかというともっとポップで軽快なものだと思う。訳出できたら、この場にも投稿してみたいとか思ったりもする。著作権とかは、ちょっと微妙かもしれないが。
2008年3月29日土曜日
モフィットとエインジェル
ルー・ドナルドソンのアルバムに、ロニー・スミスのハモンドB−3がフィーチャーされていなかったら「アリゲイター・ブーガールー」があんなにリスペクトされた作品として残っていただろうかという疑問。ブルーノートはジャケットのアートワークの独創性の高さでも知られているが、あれがペギー・モフィットでなかったらあれほど視覚的にインパクトの強いものになっていたかどうかという疑問。コンテクストとパースペクティヴ。そして個人的な思い出。
今日はエインジェルに行ってきた。アンティークの街として知られているエインジェル。かつて住んでいたストーク・ニューイントンへの玄関口的な位置付けで、足を運ぶ頻度の高かったところだ。最近映画館も入っているショッピングセンターのようなものも出来て様相が変わったと早合点してしまい、足が遠のいていた。今日はかつて良く行っていたカフェやカレー屋さんやアフガン料理屋さんなどのチェック、アッパーストリートの家具屋さんの偵察も含め、久しぶりのエインジェル探索である。そもそも、ぼくにとってエインジェルに通り道以上の価値が生まれたのは友だちに教えてもらったカフェのせいなのだ。ちょっと独特なそのアートセンターの最上階のカフェは「誰にも教えないでね」という触込みで教えてもらったところだ。なんとなく、60年代風の雰囲気。モデルもしたことのあるその友だちは、ジーン・セバーグやジャンヌ・モローがタバコを吸う様を観て、タバコを吸い始めたのだそうだ。本人に直接言ったことはないのだが、ぼくはその友だちに初めて会ったときに、ペギー・モフィットみたいだと思った。顔が似ているとかではない。凛としたオーラとか、そういうことだと思う。ポリー・マグーよりは、アリゲイター・ブーガルーのイメージだ。そんなことを思い出しながら、歩くエインジェル。当時より商業の匂いはするが、街全体の雰囲気は思ったほど当時と変わっていない。あのカフェで何時間も話したこと。冷たくなったコーヒーの匂いや暗くなり始めた外の様子が蘇ってくる。今でも時々思い出される一言がその友だちから発せられた瞬間の凍りついた空気が、ぼくを撃つ。エインジェルだなんて、なんという象徴的な名前なんだろうと思う。
映画館の喧噪を足早に交わしつつ帰路に着く。かつてのお気に入りはすべて健在だった。ちょっと安心するひと時。
2008年3月28日金曜日
アリストテレスの、かの言葉
イギリスのレーシングドライバー、スターリング・モスの言葉に、「男性なら、自分が下手だと認めたくないものが2つある」というのがある。それに続く<その心は>の部分に、大きな意味があるわけだが、アリストテレスの言葉にも打たれるものがある。ぼくはギリシャ語は読めないので英訳だが、
“Happiness is self-contentedness.”
というやつだ。これも、かなり日本語になりにくいと思う。文字通りの意味を拾えば、「幸福とは、自己満足である」になりそうだが、これでは誤訳に近い。英語のself-contentednessは、日本語の自己満足にあるような、否定的なコノテーションが強くないのだ。満ち足りている、というのがcontentedだ。待てよ、と、ふと思い出したのは龍安寺の蹲いである。「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」。これがもしかしたら、時と文化を超えて共有された叡智だったのかもしれない。現代日本語にはなりにくいけど、何百年も前に言ってた人がいるんだから、今更知恵を絞ることもないのかもしれない。達観とは、決して諦念ではないのだ。
ところでスターリング・モスの「オチ」だが、「運転とメイクラブ」である。いやー、そうかも知れない。ううーむ、実に全くそうかもしれない。
2008年3月27日木曜日
対位法的鍵盤作品としての
友だちは、娘にカノンという名を付けた。音楽家の娘らしい、かわいい名前だよなーと、いつも思う。バッハの名字をモチーフにしたB-A-C-H(シ♭-ラ-ド-シ)の主題というのはベートーヴェンからパデレフスキまで取入れられてもいるが、それとこれとは別として。バッハの作品は全体的に何でも好きだが、最近特に気になっているのは「フーガの技法」だ。ファンだからかもしれないが、グールドの怪演奏も好きだし、謎が多い作品であるということも興味をひかれる。
ヘルムート・ヴィンシャマン指揮、ドイツバッハゾリステンの「フーガの技法」が聞き慣れている演奏だ。甘ったるい解釈だという批判も聞くが、とっつきやすくていいんじゃないだろうかと思う。で、今回入手したのはムジカ・アンティクア・ケルンの「フーガの技法」である。グールド、ヴィンシャマンと比べると、ラインハルト・ゴーベルの指揮は恐ろしくソリッドで、ちょっと立ち入る隙のない解釈である。ハープシコードや小編成の管弦楽による<読み>も分りやすい。聞き込むまでもなく、素直に入っていけそうである。ペルトにも、BACHの主題があったなそういえば、ということで今日もバッハに再敬意。
2008年3月26日水曜日
以外と日本語にならない表現
もう少し算術のセンスがあったら建築もやってみたいと思いつつ、長年の夢にFilm Studiesを勉強してみたい、というのがある。2つ持っている大学院修士のうちひとつめは民族音楽学専攻の社会人類学でYMOについて書いた。ふたつめは翻訳学で映画字幕について「Lost in Translation」を論じてみたりもした。この他勉強したい専攻はというと、やっぱり映画だよなあ、という単純な動機なのだが、ずっとやってみたいと思っていることの1つである。
で、ふと気がついたのだが。
翻訳もやってて映画も年に100本観てて、Film Studiesの日本語訳が分らないのだ。映画学?映画論?大体日本の大学には学位を授けるアカデミックな分野として映画を学ぶという概念が、そもそも存在しているのか?ウィキペディアを見てみても、映画学というのはどうやら日本語ではないらしいこともうかがえる。(日本大学芸術学部映画学科というのはあるらしいけども。)そこでさらに説明されている項目を見ると、ぼくが興味あるのは映画理論よりも映画史と、映画社会学に近いものであることも分ってくる。また、古い映画のデジタル復元みたいな分野にも興味ある。こういうのが勉強できるところは、あるのだろうか。またいつもの調査癖が出てしまう。ロイヤルアカデミーとかかー。ちょっと興味あるなー。
2008年3月25日火曜日
Dirty Sexy Moneyの可能性
ぼくは基本的にはテレビは観ない。観ないけど、時々観て「案外面白いな」と思うものはある。2001年からやっていた「シックス・フィート・アンダー」はついにDVDまで買ってしまった。これに出ていた俳優陣のその後は色々あって、次男を演じたマイケル・C・ホール主演のスリラー「デクスター」だとかあるし、ブレンダの弟で躁鬱病を見事に演じたジェレミー・シストは現在も人気シリーズ「Law & Order」で大活躍だったりもする。
で、「シックス・フィート・アンダー」の長男ネイトを演じたピーター・クラウザ主演の新シリーズが「Dirty Sexy Money」である。ドナルド・サザランド演じる冷徹なビジネスマンの家族はニューヨークで一番の大金持ち。そこに長年使えていた弁護士の父親が謎の事故死を遂げ、後釜として家族弁護士の位置に座ったのがピーター・クラウザ扮するニックだ。今週末からイギリスでも放映が開始されるので、中々の宣伝交戦なのだがはっきり言って、ちょっと面白そうである。キャスティングも凄いし。
2008年3月24日月曜日
「かえし」を作る
お蕎麦が好きなので、いつか手打ちにも挑戦したいと思っている。が、いきなり大きな目標は転びそうだし、できるところから始めるとするとやっぱり「かえし」かしらなんて思ってしまったもんで、つい。
で、本かえしは、日本にいたときには常備していた。普段から使って減ってきたら継ぎ足して、という使い方だ。基本は手打ちうどんの半日コースというものに参加したときに習った少量で作れるレシピで、上撰醤油で作っても「ちょい甘」の味付けになるものだ。ぼくは関東だし、家で食べるものなのでうどんも蕎麦も、肉じゃがの味付けだとかも含めて同じ「かえし」である。今回はこれを応用して、生かえしを作ってみた。(本かえしと生かえしの定義については未確認の部分もあるので、もしかしたら認識に誤りがあるかもしれない。今回は味醂と砂糖を煮詰めたものに加熱しないで醤油を加えた。ぼくはこういうものを生かえしだと思っている。全部煮ちゃうのが本かえし、というと乱暴過ぎるだろうか。)
さて、材料だがクリアスプリングという会社が、まっとうな日本の食材をイギリスで売っている。ロンドン中の自然食品店のほとんどどこでも買えるので、大体いつもそれにしている三河味醂とオーガニック醤油。下戸なので、味醂の味は分らないが料理に使うと濃くて、かつすっきりした甘み。お醤油はというと、杉樽2年仕込みでこちらも甘め。おいしい、実に。で、お砂糖はビリントンである。用途の広いデメララ糖という非精製糖のもの。お味噌も日本の麹とアメリカの豆、イギリスの塩で仕込んだ。かえしもせっかくなので、和洋折衷で作ってみようというわけで。ちなみに、デメララはいつもフェアトレードのものしている。これもまあ、「せっかくなので論理」だが、非フェアトレード品の普通のお砂糖と比べても、取り立てて高いわけでもないし。というわけで基本の材料が甘めなので、味醂は控えめにした。250mlの醤油に30mlの味醂と40gの砂糖である。それにしても飴色になった砂糖と味醂の香ばしいこと。
というわけで生かえしなので、使えるようになるのは4月の半ばだ。熟れてきたら、御膳がえしもやってみたい。といった感じで電車を待つのは楽しくないが、かえしを待つのはとても楽しい。
2008年3月23日日曜日
2008年3月22日土曜日
橋桁は、力強く天空を支える
「1日のうちに四季がある」などと言われるイギリスの天候。今日の午後は、1時間以内に晴れと、雪と、曇りと霰を見た。リナックス(リヌークス?ライナックス?)の勉強もしつつ、今日はグリドルの新調とステーキである。鉄のフライパンと同じで、イニシエーションが必要だ。ものすごい煙が出るが、油を塗ったグリドルをオーブンで1時間焼き切る。来月辺りには、おそらくこびりつかない鍋になってくれるであろうことを期待しつつ。
あと、今日は「PLANTED」でも活躍の(すごく尊敬している)いとうせいこう著「セケンムナサンヨー」再読。いとうせいこうは天才である。この人の切り口はいつも感心させられる。ベランダー、やってみたくなってるし。
それにしても真横に幅広の橋がかけられたため、橋桁だけが丁重に放置されている旧ブラックフライヤーズの美しさよ。
2008年3月21日金曜日
雪とお菓子と「マタイ受難曲」
今朝見たあれは、間違いなく雪だった。グッド・フライデー、巷は祭日である。川沿いの散策と、テイトモダンを経てひとつ復活祭っぽいのは何かというとホット・クロス・バンを食べることだ。甘めの生地にスパイスと干しスグリの実を混ぜて、キリストの十字架になぞらえて十字に切り込みを入れたパンだ。売り物のホット・クロス・バンには別の生地で十字を貼付けてあるものが多いが、手づくりだし、こっちのほうが本来のやり方らしいし、ということで切り込みを入れる。シロップを塗りたくってツヤを出して、と。ドライイーストを使ったせいか、すぐカタくなってしまった。残りは、暖め直して食べることにする。
それと、復活祭のグッド・フライデーというと受難曲である。ぼくはバッハが好きで、「ヨハネ」より「マタイ」が好きだ。68曲(3枚組のCDの曲数は79)、3時間の大作だが、アルヒーフのリヒター59年盤をもう20年以上聞いている。今年は、この歴史的名盤が録音されて半世紀の節目でもある。とかなんとかいいつつ、実際のところこの日に教会に行くわけでもないし、じっと3時間座ってマタイを聞いたことは一度もない。大体いつも何かやりながら聞いている。今日もホット・クロス・バンを焼きながら聞いた。有名な第39曲、アリア「Erbarme dich(憐れみ給え、わが神よ)」(アルト独唱)はちゃんと座って聞いたけど。
2008年3月20日木曜日
移動しない「春分の日」
2008年3月19日水曜日
野生のブルーベリー100%
夫婦揃ってトレッカーな友だちがいる。ネパールにも毎年トレッキングに行っているし、昨年末などは南米4カ国から南極上陸まで果たしたほどだ。別の友だちにも、ニュージーランド、ナミビア、南アフリカからガラパゴス諸島まで制覇している人がいる。旅慣れた友人たちそれぞれが「旅先の情報を仕入れるのにはこれがいい」というガイドブックに共通のものがあった。「The Ethical Travel Guide」というものだ。「ネパールは観光客を無制限に受け入れているため、経済は潤っているが現地人の日給は1.75ポンド」みたいなこともこの本に書かれている。トレッカー夫婦はそれを読んで、トレッキングの際お世話になる現地人シェルパをフェアトレード認定の団体からの派遣に変えたそうである。隣国ブータンはネパールでの<失敗>を教訓とし、厳しくコントロールされた観光は政府認定の団体による宿泊、食事、交通、ガイドなどはすべて前払いで1日当たり250ドルだそうだ。費用はブータン人の医療、教育などに還元されるそうである。なるほど。次の旅はオルタナティヴなものにしようと思わせる情報満載だ。
ちなみに、ヨーロッパでの環境大国は予想通りスウェーデンだった。ちょっと気になってるブルーベリーの飲み物もあるし。
2008年3月18日火曜日
めずらしく感傷的な日
チベットの動乱も悲しいし、アーサー・C・クラークが亡くなったというのも大きなニュースではある。が、今日一番悲しいのはアンソニー・ミンゲラの急逝だ。まだ54歳の若さだった。今晩試写会の開かれるThe No. 1 Ladies Detective Agencyが遺作ということになってしまった。「ブリジット・ジョーンズの日記」や「ラブ・アクチュアリー」でもお馴染みのリチャード・カーティスとミンゲラのコラボということで注目していたのだ。製作発表されたばかりだったThe Ninth Life of Louis Draxはお蔵入りだ。それほど本数は撮っていないが、いい作品ばかりの監督だった。(そういえば、アンドレイ・タルコフスキーもそういう監督だが、タルコフスキーも54歳で亡くなっている。)
ぼくがミンゲラ作品の最高傑作だと思っているのは「リプリー」だ。ジュード・ロー、マット・デイモン、グウィネス・パルトロウにケイト・ブランシェットという豪華なキャスティングだけに終わらない、珠玉の名作だと思う。同じパトリシア・ハイスミス原作のルネ・クレマン監督作品「太陽がいっぱい」も好きだが、「リプリー」はリメイクではなく、まったく別のエンティティだと思う。妻は、91年のデビュー作「愛しい人が眠るまで」が印象に残った生まれて始めての映画だったという。今日は追悼の意味も含めてミンゲラ作品を静かに観ようと思う。候補は、「イングリッシュ・ペイシェント」とまだ観ていない「こわれゆく世界の中で」。明日の朝が、多少辛かろうとも。
2008年3月17日月曜日
Linuxで再生iMac
使われていないiMac DV SE Graphiteというのが本棚に鎮座している。使われなくなってすでに数年。吝嗇なつもりでは決してないのだが何十万円はたいたのに売ったら数千円みたいな世界だし、なんとか使い道はないかと思いつつさらに数年経過してしまった。iTunes専用マシンにするという方法もあったが、USBがついてこない。バックアップ用のサーバーにするという手もあるが、Time Capsuleがあると本末転倒気味ですらある。せっかく古いマシンなんだし、それなりの使い道のある方法で再生してみたい。
というわけでまだ計画の段階でしかないのだが、Linuxにしてしまおうと思う。ググってみてもどうやらまったく使えないスペックでもなさそうだし、GNU/Linuxはずっと勉強してみたかったのだ。まずは内蔵のバッテリーを交換するところから始めなくてはならない。ディストロ
もまだ決めてない。大体プログラミングのことはほとんど何も知らないのだ。てなことでこの計画、長期戦で構えます。
2008年3月16日日曜日
久々にムサカを作ってみた
「この寒いのにナスもねえべなあ」とか思いつつも、ラムはばっちり旬である。メインになるのは、やっぱり肉だしね、ということで。元はアラブ語らしいが、英語の語彙としてはギリシャ経由で入ってきている。基本的にはラムのひき肉とをトマトソースで煮込み、ジャガイモとナスを薄切りにしたものとベシャメルをかけてオーブンで焼いたものだ。正式なものにはものすごく意外なハーブやスパイスが入っているが、ぼくが入れるのはナツメグとシナモンとパプリカである。たまねぎとにんにくのみじん切りをラムと一緒に炒めて、件のスパイスを投入したのちトマトで煮込む。この間ジャガイモを茹でておくのと、薄切りにしたナスにオリーブ油をかけてオーブンで焼いておくのが頃合いのタイミング。ラムが煮えてきたらベシャメルの用意だが、出来上がり間際にぼくはグリュイエールと生卵も入れてしまう。卵がオムレツみたいになって、焼き上がりがふんわりするのよね。といった感じでラムの上に芋とナスを重ねて、さらにベシャメルなわけだが、これがまた簡単でおいしい。少量というか、2人分作るのは難しいので大きめに作って翌日のランチにするのが正解という気もするんだよなー、これ。
2008年3月15日土曜日
コーラじゃないのよ、あくまでも
オレンジで作ったコーラのようなもの、というのが一番短くてすむ説明になるかもしれないのだが。Chinottoという飲み物だが、キノットと発音するようである。
ぼくはコーラは飲まない。というか、所謂ペリエのような炭酸水以外の<砂糖で味の付けてある炭酸飲料>は基本的に好みではない。炭酸水の中でも好みがあったりするのだが、Sanpelegrinoという日本でも売られているミネラルウォーターが特に気に入っている。このメーカーの製品であるChinottoは、例外中の例外的に好きな炭酸飲料だ。所謂正規販売ルートというのはイギリスにもないようで、ぼくの行動範囲に限って言えばだがCarluccio'sのようなイタリア系のカフェ/レストランとか、たまに行っているハマースミスのLyricという劇場など、一部でしか売られていない。学名Citrus Myrtifoliaという柑橘系の果物にハーブを加えて作ったChinotto。ちょっと独特で、コーラ系の飲み物だとチェリーコークとかドクターペッパーなどに似ていなくもないかもしれない。
ちなみに、ぼくがランチによく行くお店にSpianata & Coというのがあるが、ここでもChinottoは売られている。サンドイッチも普段好んで食べるものではないのだが、ここのローマ風180cmもあるオリーブ油で作った平たいパンのサンドイッチは時々無性に食べたくなる。Chinottoがまた、これによく合うのだ。
2008年3月14日金曜日
またしてもおいしいカレー
Tiffinには、いろいろな意味がある。インドの地方によっても意味するところが異なったりもするが、軽食あるいはそれを入れる容器、といった感じだろうか。旧英領インドのコンテクストにのっとれば、特に「ティフィン」は弁当箱になる金属製の入れ物、ということになる。日本語で「弁当」というとランチそのもののことだったり、それを入れる箱を意味することもあるのに状況がちょっと似ている気がする。ロンドンの、特に金融街に数店舗お目見えしたTiffinbitesでは、ステンレス製のティフィンでカレーが提供される。店舗によってかなり趣きが異なるが、Russia Rowにあるお店はちょっとおしゃれでかわいい。で、おいしい。おしゃれな見た目のお店によくある「中身はどうよ」ということがなく、どれをとってもおいしい。ターリには4種類ものカレーが出てくる。これにサラダと米とナンで、お皿の直径はまず40センチ以上はある。カウンター式になっている部分の端っこ、席から見えるところにタンドールがある。ナンはここで焼いている。チキンもフリーレインジという放し飼いにされたものを使っている。マンゴーラッシーがまた秀逸だ。すばらしく濃く、飲みやすい。
「またカレー屋さんの話なの?」ではあるが、実際好きなので、そこはまあ。
2008年3月13日木曜日
完璧な週末を手に入れる
Verde & Coはなんというか、こう、完璧である。たとえば、お店の外に置いてあるアンティークのいす。フランスのカフェとか公園で見かけるやつだ。店内でも暖炉に乗せられた銅の鍋。並べられたピエール・マルコリーニのチョコレート。なぜか紙製のギニョール。調度品だけではない。コーヒーもおいしい。でも、わさびとか「本だし」も売っている。かごに入っている野菜は新鮮そのものだ。領収書に押されるゴムのスタンプのロゴもすばらしい。ものすごく、すべての要素において、いつ行っても圧倒されるのがVerdeだ。そりゃまあ、確かにけっこうお値段だとは思う。卵なんて、スーパーの倍もする。でも、そこにはしかるべき理由があるのだ。そんじょそこらの卵ではない。ちょっと地卵みたいなレアな品種。当たり前のように対応してくれる店員さんはいつもそつない。所謂ひとつの笑顔が素敵だったりするわけでは、ないんだけどね。
スピタルフィールズの、中ではないがマーケットの南端40 Brushfield Street、郵便番号はE1である。ここはまあ、ものすごく混んじゃうところではないだろうと思うのだが、あんまり広めないで欲しいような気も、しないでもない。
2008年3月12日水曜日
都会を纏うには
ケンジントン・ガーデンズは、故ダイアナ妃も住んでいた邸宅があるところだ。1997年の夏には、ぼくよりも背の高いひまわりを贈呈しに行ったりもした。ところでこの公園、ハイドパークと繋がっているのでどこからがハイドパークでどこからケンジントン・ガーデンズなのかが今少し分りにくい。一応明らかにケンジントン・ガーデンズ側と思しき西端からハイストリート・ケンジントンの駅に向かって歩いた道の北側にはハビタとアーバン・アウトフィッターズが隣接している。アーバン・アウトフィッターズは基本的には服屋さんだけど、いかにもキッチュなメラミン食器やアナログ盤レコードのジャケット専用の額縁なんてものが売られていたりもする、ちょっと愉快なお店だ。
ぼくが良く行くのはコヴェント・ガーデン店のほうだが、ここではスタイロフォンも売っている。ソファだとかもそうなのだろうが、ヒラリー・クリントン型のくるみ割り人形まで含め、都会の装いは服だけじゃないのだ。ちなみに売り切れてしまったが、原寸大のR2D2型ゴミ箱なんてものもある。しかしこの2007年リバイバルモデルのスタイロフォン、MP3入力なんてものが付いてる。お気に入りの曲に合わせてスタイロフォンを演奏できるってことだ。困る。こういうことされると困る。欲しくなっちゃうじゃないですか。
2008年3月11日火曜日
現代だからこそ可能なもの
紅茶がヨーロッパにもたらされたときに、なぜ緑茶ではなく紅茶だったのかという大きな理由に、物理的に不可能だったから、というものがある。当時海路なり陸路なりで東洋から運ばれてくるお茶は、その移動の過程で発酵が進んでしまい、「紅茶になってしまう」のだった。爾来、ヨーロッパで飲まれるお茶はすべて発酵系だったが、現代においては航空便というものがあるので、緑茶を緑茶として数千マイル旅させても紅茶になってしまうこともなくなった。紅茶の話はまた別として、ルイボスは日本でもポピュラーな(本当はお茶ではないけど)お茶だと思う。これは南アフリカの原産である。ぼくも好きで、ほとんど毎日飲んでいる。ただそれとは別に、最近売り出されるようになって試してみたらすっかりハマってしまったのが非発酵系のルイボス茶である。そのものズバリ、Green Rooibosという商品名で売られている。ルイボス茶の「オリジナルはうちだ」と謳っているのはDragonflyというメーカーで、メジャーなルイボスは11 O’clockやTick Tockなどいろいろな銘柄がある中、ふたを開けてみればどれもDragonflyだったりする。
「緑茶のルイボス」を出したのはTick Tockだ。まず、すばらしく飲み口がやさしい。日本茶に慣れている者にとっては普通の(すなわち紅茶の)ルイボスよりも飲みやすいかもしれない。日本でも売っているところは売っているんじゃないだろうか。だってこれ、けっこう流行りそうだし。
2008年3月10日月曜日
後世に伝えたい義母のレシピ:薫製鯖のグラタン
魚をグラタンに入れるという発想が、またすごいと思った。使うのは、イギリスではどこのスーパーに行っても真空パックで売られているのだが、燻製の鯖である。ぼくは腸だけ外されているのを日曜市場などで仕入れているのだが、スーパーの骨も抜いてあって頭と尻尾まで外してあるものなら、皮を剥いてほぐすだけ。
タイミング的にはパスタを茹でるお湯を沸かすところから始めて、パスタを茹でるのと同じくらい大きいお鍋でホワイトソースを片栗粉で(小麦粉ではなくて)作るところから、このグラタン作りは始まる。なぜかというと、後でソースに茹でたパスタを混ぜるからである。というわけで大きめの鍋にバターと片栗粉に粉からしを小さじ1杯程度加えたものを炒めて、ナツメグを40往復くらい削り、牛乳で伸ばしてホワイトソースにする。イギリス風に決めたい場合、洋からしは、やっぱりコールマンかなあ。粒マスタード入れてもおいしいんだけどね。で、このホワイトソースにチェダーチーズをおろしたものを一掴みくらいと、ざく切りにした生のトマトかプチトマトと、先ほどの「ほぐし鯖」を混ぜてから茹で上がったパスタを混ぜて、オーブン皿に移してパルメザンとブランフレークを砕いたものを散らして200℃くらいで20分も焼くと完成である。オーブン料理なのに、作り始めてから30分以内で食卓へ、である。鯖にも脂が乗ってるし、冬においしい料理だが、イギリスはコーンウォールの沖で獲れる近海の鯖が実は夏ごろ旬なので、暑い時期にハフハフ食べるのもおいしい。トッピングのブランフレークはたまたま義母が常食していたからというのが理由のようだが、コーンフレークでもパン粉でも、極端な例なら「おせんべ」でもいいかもしれない。ビニール袋に入れて、すりこ木で叩いて粉にならない程度に砕く。カリカリした食感が決め手である。パスタはペンネ・リガーテとかフジッリとか、ある程度の大きさがあってソースの絡みがいいものが適していると思う。
ところで、日本では燻製の鯖が手に入りにくいと思う。青魚系で燻製になっていて、骨が少ないもののほうがこの料理にはいいかもしれない。あるいは、鯖の文化干しみたいのが入手しやすい代用品か?お菓子の缶に穴を開けて、中に大鋸屑とハーブを入れてガス台の上で20分ほど燻すだけでも燻製は作れるので、燻製の鯖を作るところから始めるというのも一興かもしれない。それに、ほぐした鯖の<剥いた皮>を捨てちゃったりしてはいけない。トースターとか魚焼きグリルなんかで炙って食すべし。
2008年3月9日日曜日
ヴィランドライと「平和の油」
Villandryに、久しぶりに行ってきた。3月に入って行動範囲が若干変わったこともあるのだが、Great Portland Streetのエリアに行くのは数ヶ月ぶりだったことに、行ってから気がついた。この区域には、10年以上前には日本食の食材屋さんもあった(今はもうないのだが)。友達も近くに住んでいるし、ちょっと面白い家具屋さんとか、ほかでは買えない折りたたみの自転車を売っているお店なんかもある。しょっちゅう行くところではないのだが、ちょっと独特な趣きのあるところでなんとなく好きだ。ところでフランス語ならヴィロンドヒくらいの読みだろうが、英語だと「ヴィランドライ」と読むこのお店、いつ行ってもまあ見事に欲しくなるものばかり置いてある。天然酵母のパン(「普通の人が寝ている間に私どもではパンを焼きます」)しかり、1ダースくらい一気に食えてしまいそうなピレネー山脈産のマドレーヌしかり、砂糖を一切使っていないジャム、ポルトガル産の巨大なツナ缶などなど。所謂そこら辺のデリとは一線画している。今回は、他では手に入りにくいもの、いつも気になっていたのだがそのお値段のせいもあってなかなか手を出せずにいたものということで、Peace Oilを仕入れてみた。
Peace Oilはイスラエルで生産されているオリーブ油である。Peace Oilというチャリティなのだ。ユダヤ人、アラブ人、ドゥルーズ派とベドウィンが協働しているという、文字通り平和の油である。はずなのだが。たとえば、Zaytounという団体。パレスチナ人の生活の糧としてのオリーブ油を提供していて、イギリスのオーガニックの認証団体であるSoil Associationも認識している同団体は、Peace Oilの<不透明さ>を激しく批判していたりもする。英紙ガーディアンに2007年末発表された記事でも、協働どころか良くあるオリーブ油生産と変わらないアラブ人のみの労働力の行使などを問題視してもいる。なるほどねえ。その響きほどは平和じゃないのかもしれないね。
で、肝心のお味のほうはというと、ふ〜ん、へぇ〜、ほ〜。
2008年3月8日土曜日
楽しいリゾット作り
生まれて始めての自転車に、いきなり乗れた人は少ないと思う。転んだり、膝小僧擦りむいたりしながら乗れるようになるのが自転車だとすると、リゾット作りもそういう感じかもしれない。やってるうちに、コツが掴めてくる。掴んでしまったコツは、おそらく一生忘れない。それに、手間はかかるかもしれないが、案外失敗の少ないのがリゾットなんじゃなかろうかと思う。
基本的にはエシャロットとセロリをみじんにして暫し炒めた後、米も炒めてベルモット、お玉一杯分ずつ熱いストックを足しながらかき混ぜて、仕上げにパルメザン。ずーっとかき混ぜてるようではあるが、これだけでいつ間にか出来ちゃうというのがリゾットである。
自分でも気に入っていて、評判もいいのが<秋の山リゾット>だ。干しポルチーニを戻したものとジロール、シャントレル、生の椎茸なんかをバターで炒めてそこにタイムと一味唐辛子、仕上げに輪切りにしたレモンを乗っけておくと自然にジュースが絞られている。これを基本のリゾットのレシピに混ぜる。
山羊のチーズと炒めたパン粉とローズマリーのリゾットも好きだ。パルマハムと松の実も入れたりする。カボチャと栗と、パンチェッタのリゾットも良くやる。ジェイミー・オリバーのレシピにあったアスパラとミントとレモンっていうのもおいしそうだし、尊敬しているアレグラ・マケヴィディの赤ワインとトレビーツのリゾットも、今度ぜひやってみようと思う。
リゾットは、1カップの米で3人分出来る。ぼくは普段は発芽玄米だけど、リゾットのときだけは白米である。アルボリオのオーガニック。チェーン店ではない自然食品店で買う。
といった感じでその労働力の高さと使う米の少なさで、ちょっと「お米のありがたみ」も味わえるものかもしれないリゾット。やってみると分る、その楽しさ。ちなみに、大麦のリゾットもおいしいんだな。
2008年3月7日金曜日
「はなればなれに」、だろうか、しかし
2001年まで日本で公開されていなかったというのは、ちょっと驚きなような。「カラビニエ」のときと同じで、公開までは時間がかかっただけなのか。
「Bande à part」はゴダールの長編7作目で、1964年の作品である。ラウール・クタールによる曇った映像、「ぶった切り」くらい唐突な音楽、当時23歳でゴダール夫人だったアンナ・アリーナのコケティッシュさ。2003年のベルトルッチ監督作品「ドリーマーズ」でも引用されていたルーブル内での疾走、執拗に繰り返されるマディソン・ダンス、1分間の沈黙。悲喜劇、ノワール。この映画の魅力は<細部>だと思う。ないがしろにされてなどいないが、緻密に作られてもいない細部だ。ラストシーンに意味があるのではなく、ラストシーンで語られる一言にこそ意味がある。細野晴臣の「はらいそ」だって、あの一言でアルバムが終わっているではないか。
村上春樹が「ドアーズの『Light My Fire』を『ハートに火をつけて』と訳すのはやわ過ぎる」というようなことを言っていた。「はなればなれに」もどうかなあと思う。
2008年3月6日木曜日
18 Folgate Streetのこと
スピタルフィールズはマーケットの街でもあるが、現代アートの街でもある。ギルバート&ジョージやトレイシー・エミンもここに居を構え、スタジオを構えているのは有名な話だろう。そして道を一本渡れば、そこはもはやバングラデシュ。これを共存と呼ばずしてなんと呼ぶ。移民の街としての歴史は数世紀以上というのも特徴の1つだ。そんなスピタルフィールズの北の外れに、一際異彩を放つ建物がある。とは言っても、外からはその異色さが分らない。一歩入って初めて分る、その言わんともしがたい異様さ。基本的には、18世紀後半からユグノーの一家が住んでいた10部屋の地下一階地上4階の連棟のひとつなのだが、ここは所謂博物館とはちょっと違う。そもそも、ここは博物館などではないのだ。
まず、電気が通っていない。ここの住人だった異邦人は、20世紀の後半20年という歳月を電気なしで生活していたのだ。地下の一部屋など、ロウソク一本である。如何に現代人が電気に毒されているのかを思い知らされることになるのだが、数分この部屋の空気に触れているうちに不思議といろいろなものが見えてくる。もうひとつ、匂いが重要な要素であること。よく乾燥された松の燃える匂い。古い紙、木綿、ポルトの匂い、牡蠣の殻、大鋸屑のように床の角に掃きよせられたラベンダーの匂い。そして割れたままの皿、壁にかけられたホガースと一体化することを<強制する>倒れたままの椅子と但し書き。架空のジャービスという一家の存在を感じてもらうために凝らされた工夫の数々を感じること。そう。ここは史実に即した博物館などではなく、1人の人間の想像力が築き上げたファンタジーなのだ。開いているのは第1と第3の日曜2回と翌月曜の昼、そして毎週月曜の晩のみである。毎週月曜の晩に開催されている、キャンドルナイトがおススメだ。
ここの元住人は南カリフォルニア生まれ(国籍はカナダ)、イギリスの生活に憧れて30歳の時にこの地に辿り着いたアーティストである。若干50歳で逝去。一口で言ってしまえば、ロンドン東部に住み着いた異邦の変人としかいいようがないデニス・スィーバース。デイヴィッド・ホックニーは、この家をオペラと呼んでいる。体験してこそ分る、この真意。
2008年3月5日水曜日
アニー・リーボヴィッツの伝記映画
この、妹のバーバラ・リーボヴィッツによる脚本、監督、製作の伝記は、元はアメリカのテレビ映画である。日本でも上映が始まった2月中旬に、ロンドンではICAで単館上映が開始された。ドキュメンタリー映画は、集客の難しいジャンルかもしれない。特に、それが元はテレビ用だったとすると、なおさらだ。しかし、この1時間数十分を、スクリーンを通じて見るだけでもリーボヴィッツの凄まじいまでのエネルギーが伝わってくる。この人のすごさは、ソンタグとの関係やジョン・レノンの最後の一枚だけではないというのが、手に取るように分る。テレビではなく、映画館で観てこそ伝わってくるものがあるように思う。
映画には、「レンズの向こうの人生」というタイトルが付けられている。レンズを通して捉えることの出来る人生。本人の言うように、それこそがアニー・リボヴィッツが30年以上に渡って行ってきていることなのかもしれない。
2008年3月4日火曜日
してやったりディーゼルハイブリッド
ぼくはハイブリッド車には懐疑的なほうだ。技術としてはすばらしい。しかし、CO2の排出量はともかく、燃費は複数のロードテストによると普通のガソリン車と変わらないか、車重のせいでかえって良くないこともあるらしいし、大体クルマより先に電池がお釈迦になってしまったら、リサイクルできない数百キロを抱えた1.5トンはどれだけ恐ろしい燃費になってしまうんだろう?メンテナンスにも手間がかかるし、クルマ自体がお陀仏になったときのリサイクルはどこまで可能なのかという疑問だってある。
ヨーロッパでは、ディーゼルの乗用車が非常にポピュラーである。最近はかなり静かになってきて煙も出ないし、CO2だけに限って言えばガソリン車よりも<キレイ>で燃費も良く、クルマ自体が長持ちする。ただ、静かになってきているせいか、間違って普通のガソリンをディーゼル車に給油してしまう事故は増えてきているらしいが。
で、6日から開催の第78回ジュネーブ・モーター・ショウ。これに先駆けて、フォルクスワーゲンがゴルフのターボディーゼルにハイブリッドを出展するという情報が流れている。Golf TDI Hybridだ。WIREDの記事では「グーグル翻訳によると」とあるので、真偽のほどは定かでない部分もあるかもしれないが、おそらく現時点で発表されている数値の部分に間違いはなかろうと思う。CO2の排出量はプリウスの104g/kmや(日本では未発表の)シビックハイブリッドの116g/kmよりも少ない90g/kmで、リッター当りの燃費は30キロ近くになる計算だ。これはまあ、あくまでもカタログスペックということで、実際のところはまた別の興味ということになるが。ホンダのInsightが今少しだったのは、デザインの奇抜さ、車両自体の価格、早過ぎた技術、みたいなことが挙げられると思う。Golfみたいに誰もが知っている筐体にハイブリッドなら、興味のある人には敷居が高くないんじゃなかろうかと思う。
ハイブリッドそのものに対する猜疑心は消えていないが、ディーゼルのハイブリッドなら使い方次第でかなり現実味を帯びた選択肢となる可能性が出てくる。かの悪名高きロンドン混雑税も、ハイブリッドなら免除になるし。ってまあ、近い将来クルマを買う予定はないけども。
2008年3月3日月曜日
聖ヨハネとは無関係でも
屋号は「セント・ジョン」。パンとワインが売り物のスピタルフィールズ店は、スミスフィールズにある本店と比べ、取っ付きやすい背の低さ。所謂コースという概念はない。メニューの値段を見ればそれが大きめか小さめか分るようになっていて、出てきた順にみんなで分けながら食べる、という体裁だ。たとえばスプラット。これは小さめのイワシで、薫製なのだが見た目は見事にメザシである。ホースラディッシュが付いてきて、絶妙の取り合わせだ。たとえばオールド・スポット。ほとんど<レア>の、溶けそうに甘い豚のバラ。一緒に出てくるのは、コンヨウセロリというセロリとは別の野菜だがほんのりセロリの味がする根菜が芥子和えになったもの。たとえば野ウサギのリエット。これまた絶妙なピクルスとの組み合わせ。たとえばヘレフォード。これはローストビーフのオープンサンドだ。たとえばスケイト。ガンギエイの頬肉が、オリーブ油とフレッシュハーブによるサルサで完璧な歯応え。たとえばファゴット。これはバスーンのことではなく、とろとろに柔らかいマッシュポテトの上にのせられた肝臓が入った巨大肉団子にタマネギのグレイビーの料理である。スペルは、ちなみにfagot。
デザートのルバーブ・リップル・アイスクリームもレモン・ポセーも、チョコレートムースも素晴しいのだが、極めつけはエクルスケーキとランカシャーチーズのデザートだ。エクルスケーキというのは、そこら辺で売っているものだとただのレーズンクッキーだが、ここのは違う。まるで木村屋のアンパンのようにぎっしりレーズンがパイ皮にくるまれている。これに、大きめスライスのランカシャー。一切れずつ口に運ぶと、ちょうどいい甘さとしょっぱさ。「セント・ジョン」はこの組み合わせの妙に尽きると思う。かつては庶民の食べ物だった、今は貴重なメニューを気取りなく現代に再生している。今度行ったら、子羊の舌とか、豚のしっぽとか、薫製のウナギも試してみたい。
2008年3月2日日曜日
古い映画を観よう:その4「ステージ・ドア」
Bird's eye viewというのは英語でいう「鳥瞰」のことだが、birdというのは鳥という意味の他にも俗語表現で「かわいこちゃん」的な若干オールドスクールの表現における若い女性一般も意味する。今年で4年目を迎えるBirds Eye View Film Festivalだが、このフェスティバル名は「女性の観点」と「鳥瞰」をかけたダブルミーニングなわけだ。2008年度は、3月6日から14日までの開催である。企画主催とも女性によるイニシアティヴ。ロンドン市内のいろいろな映画館をまたにかけて、いろいろなテーマの企画が盛込まれている。HD(カタカナで言う「ハイビジョン」のこと)による映画作成技法のようなワークショップも、もちろん女性の映像作家が講師だ。招待作品の中には日本からも河瀬直美監督の「殯の森」(公式ページはここ)や蜷川実花の監督第一回作品「さくらん」もある。ちょっと、楽しみである。と、月が変わってすぐの今日、今回のフェスティバルの企画にぴったりの古い映画が先行上映された。女性の視点、いや、「女の戦い」とでもいうべきフェスティバルの企画に即した名作である。キャサリン・ヘプバーンとジンジャー・ロジャース主演の「ステージ・ドア」だ。
物語は、ニューヨークの女子寮に始まる。ブロードウェイを夢見る、女優の卵たちが住人である。ここに、女優としての独立を証明したい財閥令嬢テリー(キャサリン・ヘプバーン)が乗り込んでくる。長い住人で踊り子としてはそれなりに成功している舌鋒鋭いジーン(ジンジャー・ロジャース)と同室を命じられ、速いテンポで話は進む。女子寮に住んでいる女優の中にはデイヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライヴ」でココを演じていた、若き日のアン・ミラーもいる。影が薄いが演技派のケイ(アンドレア・リーズ)しかり、あまりにも豪華な顔ぶれなので、「顔ぶれの豪華な映画」にされてしまう危険性があるが、この映画は決してそれだけではない。研ぎすまされたダイアログ、軽やかな応酬。ジンジャー・ロジャースはフレッド・アステアとのダンスだけではないというのも、この映画を観るだけで分るはずである。手堅く印象的。そしてなにより、この映画はキャサリン・ヘプバーンの映画である。豪華な顔ぶれで、主役に負けない幾多の女優が出演しているにも関わらず、である。演技の下手な俳優を演技するというのは、相当に上手くないとできないと思う。悲劇がもたらした女優開眼を、ヘプバーンは2カットだけで演じきる。
この後数年続くヘプバーン主演によるスクリューボールの黄金時代、名作「素晴しき休日」、「フィラデルフィア物語」を予感させる1937年度作品。
2008年3月1日土曜日
遅過ぎた再発見
ロンドンに来て初めて「ダークハイム」という言葉を聞いたときに、それがフランスの社会学者、エミール・デュルケムのことだと気づくにはスペルを見る必要があった。Durkheimって、確かに英語ではまごうことなきダークハイムですわね。で、今日の午後、その10数年前の記憶を彷彿とさせる出来事があった。絵描きの友だちで、最近は美術の先生なんかもやってる才女なのだが、最近発見したケイハンという写真家のことを話している。聞けばその人は没後半世紀以上が過ぎていて、作風としてはまあ両性具有っぽいシュールな白黒だという。ふうん。ケイハンねえ。聞いたことないなあ。でもおもしろそうだね。近くでやってたら今度見に行こうね、なんて話をミントティーを片手に進める見事に晴れたうららかな土曜の午後。音楽の趣味もいいその友だちはHerbertやJazzanovaをかけている。聞こえてきたのは「Suddenly」や「Am I losing you?」なんかだ。家に帰ってきて、晩御飯のローストポークに「1月の王様」という名前のキャベツのブランチを仕込んでいる時に気がついた。
カーアンのことか。
クロード・カーアンはClaude Cahunとスペルするが、英語読みでは見事にケイハンである。2008年2月に「Claude Cahun: A Sensual Politics of Photography」という本も出版されたばかりだが、実はかなりカーアンについて知らなかったことに気づいた。友だちの話では、カーアンは作家として短編集も出しているそうだ。ちょっと調べてみると、カーアンの本名はルーシー・シュウォッブで、あのマルセル・シュウォッブの姪だった。
ぼくが気に入っているカーアンは1932年のタンスの中に横たわる自画像である。遅過ぎてなど、いないのかもしれない。これからも掘り下げていきたい主題。
